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2012年10月11日

第17回 カルモナ

はろはろ!こんにちは〜!“よっぴ”の「パラドール紀行」です。

今日はセビージャに一番近いパラドール、クルマで20分のカルモナです。
このセビージャからカルモナへの街道沿いはアンダルシアの広大なヒマワリ畑が広がり6、7月のシーズンには一面に広がるヒマワリをバックに素敵な写真が撮れると思います。
バスの便もありますができればシーズンにはセビージャからタクシーに乗り(約30€)途中で車を止めてもらい運転手さんに写真を撮ってもらったら如何でしょうか?

セビージャは「セビージャを訪れずして、素晴らしいところに行ったと言う無かれ」と言われるほど美しい、見所の多い町ですが、このカルモナもそのセビージャに近いということだけでなく、非常にセビージャと関係の深い美しい町なのです。

第17回カルモナCarmona
名称Parador"Alcazar del Rey Don Pedro”ペドロ王の宮殿

カルモナはSevillaから30km離れたコルボネス川が流れる肥沃な大平原の高台の上にあり、フェニキア、カルタゴ、ローマ、西ゴート、アラブ、ユダヤ、キリスト教徒と数々の民族、文化が支配し軍事上の要所として古くから栄えた町です。
そして、712年からイスラム教徒によって侵略されていたセビージャの町は1248年にフェルナンド3世によって奪回されます。 この曾孫にあたる王が14世紀に「残酷王」と呼ばれたペドロ1世です。 ペドロ1世は幼くしてカスティーリャ国の王様になり権力争いから王位を守るために何人もの異母兄弟を殺害したとされます。 しかし一方で私利私欲に走る王族や貴族から土地や特権を取り上げて貧しい人たちに分け与え、民衆に対しては貧しい人々を救済したり、法に基づいた政治を行ったりして、腐敗していた世の中を立て直したりしたため民衆からは「正義の王」と呼ばれた名君であったと言われています。 ペドロ1世は、セビージャを中心として国を治め現在のセビージャの「アルカサル」を完成させたのです(アルカサルは別名”ペドロ1世宮殿”とも呼ばれている)。 一方、カルモナの荒れ果てていた(ローマ時代の城壁に3つの要塞が加えられ、現在国の文化財に指定されているその一つ)Marchena門の要塞を、イスラム教徒の職人を使い、自分の居城として改装したのです。 この城は軍事的、政治的目的だけではなく愛する女性Maria de Padellaマリア・デ・パディリアと過ごす彼にとっては心安らぐ場所であったといいます。 イスラム文化の素晴らしさを理解し、保護して、この改装には、やはり彼の指示で造られたセビージャの「アルカサル」と同じ職人を使いカルモナにいてもセビージャを羨むことのないように「ムデハル様式」の素晴らしい城を造らせたのだと言われています。 しかし、16世紀初にはまた見捨てられ、また2度の地震でのダメージも大きく廃墟と化していたものを19世紀末に、再度昔の城を再建しようということになり「ドン・ペドロ国王宮殿」現パラドールの元となる建物ができあがったのです。

このパラドールも一年中予約が一杯で非常に人気の高いパラドールの一つです。
ロケーションの良さに加えて頑丈な石造りの宮殿と中世を偲ばせる重厚なサロンや家具が素晴らしいですし、ゆったりした客室にはクラッシックな内装が施され、プール、庭園、パティオ、噴水のほか、会議室もあり、あらゆる要求に応えられるからでしょう。
そして、夜はフクロウの声が聞こえるという静かなパラドールなのです。

  

レコンキスタでグラナダに侵攻の際にフェルナンド、イサベル両王もここに滞在しているのは有名ですが、天正年間のローマ少年遣欧使節と支倉常長遣欧使節の一行も滞在しているのです。
パラドールになってからはアメリカのジミー・カーター、タイの首相など海外の賓客も多数宿泊しています。
小さな素朴なアンダルシアの美しい町カルモナの散策はパラドールからの丁度いい散歩コースです。

またローマ時代の墓地遺跡Necropolisを訪れるのも良いでしょう。

因みに、少女漫画「アルカサールー王城」(青地保子作)はこのペドロ王を主人公にしたものでもちろんこのカルモナの城も出てきます。


☆タバコ天国

クルーズでバロセロナに着いた友人とマドリッドへ移動のため空港に向かったときのことだ。
空港に着いてしばらくしてその友人がふと言った「スペインってイイ国ですねえ」
はて? 彼はスペインは初めてで、それも1時間ほど前に入国したばかりなのに・・・。
「いやあ、空港のロビーでこんなに大っぴらにタバコを吸えたのは本当に久しぶりですねえ・・・。」
「船の中でも殆どの場所で禁煙、バーの一部とロビーの片隅の灰皿が置いてあるところでみんな小さくなってタバコを吸っていたんですよ。」
「こんなに堂々と、それも女性の喫煙者も大勢いますねえ、イイ国だなあ・・・」
タバコを吸いながら一同妙に納得してうなずいていたのが何故か可笑しかった。
しかしながらスペインでもEU加盟により禁煙運動が盛んになり公共施設ではほとんど喫煙ができなくなってしまった。
確かに此処数年、嫌煙運動はアメリカを始めとして、もの凄い勢いで拡がっている。
タバコが諸悪の根元であるかのように…。
多額の税金を納めている愛煙家としてはこれはたまらない。

しかし、それにも関わらずフランスやスペインでは相変わらず愛煙家は多いようだ。
或るレストランで席に着こうとしたら禁煙席しか空いていない、仕方がないのでそこに坐り、食後のコーヒーを頼みながら「タバコを吸いたいので席を移動して良いかとボーイに頼んだところ、ボーイはテーブルに置いてある禁煙の札を取り去り、代わりに灰皿を置いて何事も無かったように立ち去っていった。

たまにエレベータの中にも灰皿が置いてあるし、地方の或る博物館では監視員が部屋の隅でこっそりタバコを吸い、交通整理の警官がタバコを吸いながら交通整理をしているのを見かけたこともあるし食事中にワインを飲みながらタバコも吸っているのも見た。
タバコを吸うのは食後のデザートになってから・・・なんていうこともこの国ではないらしい、そう何でもありがスペインなのだ。

流石に電車の中ではあまり見かけないがバスの運転手が禁煙のステッカーの張ってあるバスの中で運転しながらタバコを吸っていたのを見たことがある。

ヨーロッパでのタバコの歴史は、コロンブスの一行が第一次航海で発見したサンサルバドル島でタバコの葉を知り、エスパンヨーラ島で原住民が喫煙しているのを目撃しているところからはじまる。
因みにタバコの名前の由来は1928年発見したTrinidad y Tobagoから由来するものとメキシコのtabascoの地名(香辛料のタバスコも同じ)からきたとする説があるらしい。
また、紙巻きタバコは金持ちが吸った葉巻の吸い殻を拾って、それをセビリアの乞食達が紙で巻いて吸ったのが紙巻きタバコの始まりでpapelilloと呼ばれていた。
スペインでは街頭のタバコ売りはバラ1本でも売っている

スペインのタバコの消費量はヨーロッパ1、徐々に時代の波に押され、またEUの一員としての面目上タバコの吸えない場所が増えてはいる、タバコの広告も出来なくなっているし、毎年5月31日は禁煙デーとされている。

それでもスペインはまだまだ喫煙家にとっては愛煙天国だ、この素晴らしい国が嫌煙天国にならないように愛煙家はマナーを守るようにしましょう。

(尚この記事は数年前の体験を基に書いたものです。現在はバルであろうが、ディスコであろうが建物内は一切禁煙です。罰金など取られないようにお気をつけください!)

by“よっぴ”

2012年10月03日

第16回 ロンダ

はろはろ!こんにちは〜!“よっぴ”の「パラドール紀行」です。
第16回は切り立った崖の上の町ロンダです。
アンダルシアを代表する絶壁の町ロンダはグアダレビン川(Rio Guadalevin)がえぐった峡谷のタホ(Tajo)とよばれる750メートルの巨大な台地の上にあります。
渓谷によってこの町は二分され、その異なった地域を結んでいるのが、この町のシンボルである壮大な橋、プエンテ・ヌエボです。 この橋から望む素晴しい景観、特に日没は壮大です。 
この橋は18世紀に架けられ、全長100メートル以上に渡ってイスラムの支配の名残が残る旧市街ラ・シウダー(La Ciudad)とイスラム支配奪還後に開けた新市街とを結んでいます。 
ロンダは世界で最も美しい町の一つに数えられ今なお中世の雰囲気を漂わせています。 

第16回Ronda
名称Parador de Ronda

切り立った「タホTajo」と呼ばれる崖の上の台地にある町として有名なロンダ。

グアダレビン川渓谷に架けられた200年前のヌエボ橋、この100mを越す絶壁を見下ろすヌエボ橋のたもとに1994年、この新しいパラドールが開業されました。

18世紀から1979年まで市庁舎として使われていた建物とそして市場があった所を使ってパラドールを造ったという。

スペイン広場に面した正門の部分に市庁舎の面影を残す一方、玄関ロビーの入り口は大胆な前衛的デザインのしゃれたパラドール、勿論1年中観光客の絶えることのない大人気のパラドールで2年先の予約が入っているというから驚きだ。

客室は険しい崖に面したスリル満点の部屋にお庭のある部屋などバラエティーに富んでいて、中にはDuplexなメゾネットタイプのスウィートの部屋もある。
スタンダードの部屋もかなり広くゆったりと作られている。
玄関ロビーを含めて1階は明るい吹き抜けのサロンで広々とした空間を生み出している。
レストランは階下にあり、ここからは渓谷の眺めが素晴らしい。

  

ヘミングウェー、オーソンウェルズ、東郷青児etcと文豪や有名な画家が闘牛(発祥の町)、や景観にひかれてやってくる人が多い、とても魅力的な町ロンダのパラドールである。
マドンナもこのパラドールに滞在して、プロモーションビデオを制作している。

市内の見所も多いが周辺にも訪れる処が多くあり、パラドール自らもしくはExcursionの紹介も行っている。
"Pileta"の洞窟、ローマ時代のロンダの遺跡、グラサレマ(Grazalema)、サアラ・デ・ラ・シェラ(Zahara de la Sierra)など素朴で美しい白い町や自然を訪ねるコース、また馬に乗ってのこうしたExcursionもある。
ちょっと変わったところでは気球でロンダを空から見るというのもある、お値段は1人165€(税抜きの価格)と少し高めだが(朝食付き)・・・。


☆ 闘牛の話
ロンダには昔山賊が住み着いていたらしい。
タシカに断崖絶壁に張り付いているような町の怖いような景観を見ると成る程とうなずくものがある。
そんな景観とは別に、ロンダは近代闘牛発祥の地として知られているのです。
それまでは闘牛と言えば貴族が馬に乗り、野生の猛牛と槍で戦い、倒す。と言う貴族の遊び、ゲームだったのですが…。
それが、1698年のある日、この町で或る事件が起こりました。
この遊びに興じていた貴族の馬が野牛の角に突かれて馬が倒され、貴族は地面に叩き付けられます。
馬は牛の角で八つ裂きにされ、貴族にも襲いかかろうとした、その時、下働きの使用人の男が野牛の前に立ちはだかり主人を助けるのです。
手に持った帽子をムレータ(闘牛士が使う赤い布)のようにかざし、猛牛を何度もやり過ごし、観衆はこの妙技に拍手喝采をします。
そう、この男こそ貴族の遊技を芸術にまで高め、近代闘牛を生んだフランシスコ・ロメロなのです。

そして、この町には1785年に建設されたスペイン最古の木製の小さな闘牛場があり、モチロンこの闘牛場は現在でも使われています。
観客席は陽の当たるソルSolと日陰のソンブラSombra、そして中間のSol y Sombraとに分かれており、もちろんアンダルシアの暑い夕日を受けるSolが大衆席です。
闘牛場の観客席下の狭い空間を利用して闘牛博物館が作られており、ロメロ一族(フランシスコ・ロメロと息子、有名な孫のペドロ・ロメロ)、他ロンダの英雄たちの衣装や写真が展示されています。

貴族の遊びから、今度は腹を空かせた若者が死と向き合い、富と名声を得るためのハングリースポーツ、芸術となったのです。
一時、闘牛人気が衰えたときもありましたが、現在は伝統の復活で多くの若者が闘牛士をめざしています、が、成功するのはほんの一握りでしかありません。

素朴な疑問として殺された牛はどうなるのでしょう?
貴族の遊戯だった時代には、殺された牛の肉は貧しい人たちに分け与えられたという慈善的な意味も持っていたようです。
ただ、野生の雄牛の睾丸は精力剤として、牛を殺した貴族が食したようですが…。
現在も闘牛場には屠殺場が併設してあり、食肉として供されているそうですが、やはり肉は固いとか…、でもどう猛な野牛の肉ということで結構人気があるそうです。

闘牛はかってほどの人気はないとはいえ、それでも伝統のある競技であり、スペインの中ではサッカーと並ぶ人気スポーツです。
好カードのチケットは何十倍ものプレミアムが付きますし、それでも入手困難な場合もあります。
開催は通常は夏期の日曜日ですが、マドリッドなどでは連続開催もあります。
観戦希望の方は早めにチケットの手配をした方がヨイでしょう。

因みにカタルーニャ州議会においては、同州(州都バルセロナ)での闘牛を2012年から禁止するとの法案が可決されバルセロナでは闘牛観戦ができません。
そしてかつての闘牛場はショッピングモールやコンサート会場、映画館などに変身しているそうです。

by“よっぴ”