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2013年05月23日

第40回 マラガ・ゴルフ

はろはろ!こんにちは?!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今日はマラガのもう一つのパラドール、マラガ・ゴルフです。
ヒブラルファロが高台にある中世的な雰囲気を持つパラドールならば、ゴルフは海沿いに面した近代的なリゾートホテルと対称的なパラドールです。

第40回マラガ・ゴルフMalaga Golf
名称Parador Golfゴルフのパラドール

このパラドールはその名の通りゴルフ場をもつスポーツを楽しむためのリゾートタイプのパラドールです。
他のパラドールでもゴルフを楽しめるパラドールは多いのですが、専用のゴルフ場を持つのは、此処マラガのゴルフとバレンシアのエル・サレールだけです。
ゴルフを楽しむのは勿論ですが、広い芝生の庭、ゆったりとしたサロン、美味しい食事の出来るレストランと何もしないでのんびり過ごすのにも最適なパラドールです。

レセプションに入ったとたん大きな庭とその先に地中海が広がって見えます。 芝生の大きな庭を宿泊施設が取り囲み中央には大きな円形プールがあります。 プールを取り囲んで芝生にはブランコ型のベンチが並べられなんとも可愛らしい。 先の方には橋が架かっていて海に出ることができ、そこはもうほとんどプライベートビーチです。
建物には会議場の他に400人収容できるコンベンションホールを備えておりクルマの展示会に使われたり、毎週結婚式の披露宴が開かれるという。 因みにアンダルシアでは結婚式の招待客が400人を越えることはごく普通だそうです。

しかし、ここの自慢は何と言ってもゴルフ場です。

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1925年に作られコスタ・デル・ソルでは一番古く、スペイン全土でも3番目に古いゴルフ場で1999年にはヨーロッパツアーなども行われたという由緒あるゴルフ場です。地中海の海岸に面し、風光明媚なリゾート気分を満喫することができるゴルフ場です。
このゴルフ場は、もともとはイギリス王室がバケーションの際にゴルフを希望されたために造られたそうです。

マラガ市内、国際空港に近く、大リゾート地トレモリノスに隣接しており予約率が高く、夏には1年、冬場でも半年前の予約が必要となっています。
外国人の比率も55%と高いのですが、マラガ市民が夏休みに利用することも多いのです。
また一度利用した人は何度でも利用する人が多く、代々家族で利用する人も多いとのこと。
故ケネディ大統領一家、フランスのシラク元大統領、スペイン王妃、バレステロスなども利用されているそうです。


☆パブロ・ピカソ

抽象画の天才画家ピカソは1881年マラガに生まれました。
そして1895年にバロセロナに移住するまでの少年時代を過ごしています。
10月25日に生まれ、11月10日に洗礼を受けたときに、それはそれは長い、まるで落語の寿限無のような名前が付けられています。
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フワン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピニアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」と言います。
こんな長い名前になったのにはピカソの出生に理由があるのです。
本来ならパブロ・ルイス(父の名)ですが、どういうわけか母方のピカソを名乗ってパブロ・ピカソとなっています。
あとの中に挟まれた名前はいわゆるミドルネームです。
ピカソがこの世に生まれて来たときには息をしていませんでした。産婆が懸命に手を尽くしましたが蘇生せず諦めかけていたところ、叔父のサルバドールが葉巻の煙を鼻の穴に吹き込むと、とたんに大声で泣き始めたのです。
この奇蹟にあやかりたいと親戚中で自分の名前をピカソに付けたのです。
幼少時代のピカソの学業成績はとても悪く自分の名前もまともに書けなかった、まあこれくらい長い名前を付けられれば当然とも思えますが…。
しかし、その美術の才能は、美術教師をしていた父親が自分の才能の無さに失望したと言われるほどの天才ぶりを発揮していました。
1900年パリに出たピカソはその後「青の時代」「薔薇色の時代」を経てキュビスム(立体派)の世界に進むのですが、ドイツ空軍によるバスク地方のゲルニカ爆撃への怒りを表現した大作「ゲルニカ」は現在マドリッドの国立ソフィア王妃センターに展示されています。
この時以来フランコ将軍が生きている内にはスペインには帰らないと言い続けてフランスで生涯を終えていますが、実際には時々ヨットで生まれ故郷のマラガに立ち寄っていたらしいです。

by"よっぴ"

第39回 マラガ・ヒブラルファロ

はろはろ!こんにちは?!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今回と次回はスペインを代表する国際リゾート地コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の中心であり、アンダルシアの県都マラガにある二つのパラドールを紹介しましょう。
マラガは地中海に面した港町、バロセロナが横浜ならマラガは神戸というところでしょうか?スペイン第6位の都市で画家のピカソの出身地としても有名です。
AVEの開通によりマドリッドから2時間半足らず、ピカソ美術館も作られ益々人気が出てきました。
美しい町並に美味しい地中海料理に溢れるマラガ、この二つのパラドールはきっと貴方を魅了するに違いありません。
因みに歌にある「マラゲーニャ」とはマラガ地方の民謡のことですが、美しいマラガ女性の意味でもあるのです。

第39回Malaga Gibralfaroマラガ・ヒブラルファロ
名称Parador" Gibralfaroヒブラルファロ城のパラドール"

コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の中心地マラガには二つのパラドールがありますが、マラガの白い建物に囲まれた港町を見下ろす高台、ヒブラルファロ山(灯台の丘)に建っているのがヒブラルファロのパラドールです。このMalaga Gibralfaroのパラドールは1920年に建設され一般の家として使用されていたのですが、やがてレストランの営業を始め1965年からパラドールとなったものです。

一部のガイドブック等には隣接する14世紀のヒブラルファロのアルカサバの一部がパラドールとして営業しているように書かれていますが、これも名称と、いかにもアラブの城の雰囲気を持つ建物のせいでしょうか?

確かに、このパラドール自体は歴史的な建築物ではないのですが、バルの一部として利用されている厚い石の壁とアーチ状の石柱に囲まれたバルコニーや重厚な家具に囲まれたサロンで身を休ませればまさに中世の古い城内に居るような気分が味わえことでしょう。

そして、このパラドールの特色は Gibralfaro 城の真横に建っており眼下にマラガ市内と地中海が、一望出来るというロケーションの良さもあります。
天気の良い日にはアフリカ大陸まで見ることが出来ます。
特に部屋やレストラン、サロンからの夜景は格別に美しい。
マラガには港町らしく、美味しいレストランが沢山ありますが、このパラドールのレストランは地元でも有名でいつも大勢の客で賑わっています。 レストランの料理に勿論、海産物のメニューが多く、日本人の口にもとても良く合います。 雰囲気、料理、サービス、どれをとっても非常に質が高いレストランと言えるでしょう。 また、金曜日と土曜にはピアノの演奏やギターの生演奏も入ります。
部屋は広めでブルーを基調にまとめられ、かすかにアロマの香りが漂います。またランプ類は陶器を使うなどシックで落ち着きのある空間を造り出しています。

大変静かで、リゾートを味わいながらマラガ市内の見学も出来るお勧めのパラドールです。

国際観光都市でもあり、このパラドールは外国人の比率は60%、38室の年間の予約率は90%を超えると言う、高台にあるため夏でも比較的涼しく、混むので一ヶ月前には予約が必要です。


☆ Semana Santaセマナ・サンタ(聖週間)

スペインの宗教行事で一番重要なのはイエスの復活を祝う復活祭前の一週間の聖週間(セマナ・サンタ)だろう。
復活祭は春の彼岸後の満月の後の最初の日曜日と決められているので年によって日が変わるので移動祝祭日と呼ばれる。(3月22日から4月24日の間)
このときは何処の観光地も混み合うので旅行者には注意が必要だろう。

聖週間の間、毎日コスタレーロと呼ばれる担ぎ手によって100を越す山車(パソ)がパレードを行うのだ。特にセビージャとマラガの行列は有名だ。
復活祭の行列の山車や衣装には一年間の準備がなされている。

荘厳な雰囲気の中、聖母マリアとキリストの像が飾られた山車が教会を出発し、管楽器と打楽器の楽隊のリードで町中を行進する。その後ろを秘密結社のような顔を覆ったとんがり帽子を被った懺悔者がついて歩く。
時折パソの行列が立ち止まると、今度はサエタ(投げ歌)と呼ばれる哀愁を帯びた嘆きの歌声が響いてくる。                                                  
このときばかりはスペインは敬虔なカトリックの国だと思い起こしてくれる。そしてその後フェリア(春祭り)が待っているのだ。

by"よっぴ"




  

2013年05月07日

第38回 マサゴン

はろはろ!こんにちは?!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今日はコロンブスゆかりの地、ウエルバの南東24kmにあるマサゴンのパラドールを紹介しましょう。

第38回マサゴンMazagon
名称「Parador"Cristobal Colon"」クリストバルコロンのパラドール

ジブラルタル海峡の先端タリファ岬からポルトガル国境アヤモンテまでの海岸は細くて 白い砂浜の海岸が続くため、コスタ・デ・ラ・ルス(光の海岸)と呼ばれています。 マサゴンの海岸は砂浜の後ろが切り立った断崖になっていて、その高台の上に白いアンダルシアの建物、パラドールがあります。

Costa del Solのような華やかさはありませんが世界自然遺産に登録されたドニャーナDoñana国立公園に隣接し、海を見下ろすロケーションにある美しい自然に恵まれたパラドール、静かな休暇を過ごしたい人には特にお勧めしたいパラドールです。
太陽の光がまぶしく明るく広い部屋、バルコニーから眺める広大な芝生の庭には中央に大きなプールがキラキラと輝く水を満々とたたえて、周りには熱帯樹と美しい花が咲き乱れていますが泳ぐ人はまばらです。

プールの脇を通り、庭をそのまま海に向かって歩いていくと眼下にマサゴン海岸の海水浴場が見えてきます。
そして砂浜までは50mも続く階段を降りて行かねばなりません。
石造り、黒のスレート葺きの4階建てパラドールは外観こそ派手さはありませんが内部の設備はさすがパラドールとして充実しています。 自然の雰囲気を大切にして内装はほとんどが木材を使った暖かい感じのインテリアに仕上げていて、山奥にありながらもバスルームも広く室内の空調設備も整っています。コスタ・デ・ラ・ルス(光の海岸)の名の通り真っ白に輝く砂浜の海岸には海水浴や日光浴を楽しむ観光客が大勢います。 ット言っても日本の海水浴場にはほど遠い混雑ですが…。

部屋には地元ウエルバHuelvaの特産品である、甘いオレンジのワインのフルボトルがWelcome Drinkとしてサービスされています。

パラドールは7,8月の海水浴シーズンを除いては外国人が6割を占めるそうです。
ウエルバHuelvaの特産品といえばイベリコ豚で作られるハブーゴ村の「ハモン・イベリコ・デ・ベジョータ」でしょう。 イベリコ豚は家畜全体の4%ほどしかなく中でも“ベジョータ(どんぐり)”だけで育ったイベリコ豚にのみ呼称が許されるのが「ハモン・イベリコ・デ・ベジョータ」です。 その中でもハブーゴ村産のハモンは最高級品とされ世界中の美食家たちを魅了しているのです。

この名称のCristobal Colonとは勿論アメリカ大陸発見のコロンブスのことです、この地のパロス港から1492年8月3日に出港しているのです。
コロンブスに興味のある人は一回目の航海で出港した町パロス・デ・ラ・フロンテーラPalos de la Fronteraや、近くのコロンブス一行が準備を進めた修道院ラ・ラビダ"La Rabida"の修道院などを訪れてみては如何でしょうか、川の近くにはコロンブス博物館もあります。
またこれらの名所を巡るツァートロリーバスも出ています。

  
もう一つ忘れてはならないのは1994年にユネスコの世界遺産に登録されたDoñana国立公園でしょう。 Doñana国立公園の広さは7万3000haもあり野鳥、鹿、猪など野生動物の宝庫となっていて、毎年25万人以上が訪れるといいます。 公園の複数の入り口には一般向けの案内所があり、ハイキングコースや動物を観察するためのコースでは、動物たちや季節には多くの渡り鳥たちの大移動の様子を観察することができます。
セントロ・アセプーチェ"Centro Acebuche"というインフォメーションセンターから4X4の4時間ツァーが日曜日を除いた8:30,17:00に出ています。(冬季の午後は15:00)(電話で予約する必要あり)
ただし、この公園入り口にあるセンターまで約20kmはタクシー、レンタカーなど各自で行かなければなりません 広さは7万3000haもあり野鳥、鹿、猪など野生動物の宝庫となっています。

☆ コロンブス

コロンブスが新大陸の発見(と言っても西インド諸島の一部ですが)したのはイサベル女王とフェルナンド王のカトリック両王によってスペインが統一された年の1492年です。

コロンブスは綿密な準備と計算をもって西回りで黄金の国ジパングを目指す計画をポルトガルのリスボン時代にポルトガル王家に援助を持ちかけますがポルトガル王家には財政はなく、スペインのイサベル女王、フランス王家に援助を願うなどしますが、何処も財政難でコロンブスの計画に援助を申し出る国はありませんでした。
しかし、グラナダ・アルハンブラ宮殿の陥落によりレコンキスタを完了したイサベル女王はジパングの金と西回りでのアジアとの交易に興味を持ち、許可を与えるのです。
しかし、財政難のスペインには航海費用を出せる余裕などなく、航海費用の200万マラベディスの7割140万をジェノバの商人フランチェスコ・ピネリが出すなど、結局スペイン国としては全く航海費用を負担していないのです。
当時、イタリアの東側にはオスマントルコがあり、アジアとの交易にはオスマントルコを通過しないでよいルートが必要だったのです。
費用は出さずとも、それでもスペインの後ろ盾があるということが必要だったのでしょう。

サンタ・マリア号全長24m、最大船幅7.5m100〜120積載トンを旗艦としてコロンブス以下40名、ニーニャ号60t、ピンタ号80tに合わせて50名総勢90名が1492年8月3日パロス港を出港したのです。
こんな小さな船によくこれだけの人が乗れたものです。

9月6日カナリア諸島のゴメラ島をを出港して10月12日サン・サルバドール島を発見(救世主という意味だそうだ)したのですが、もちろんこのときはインドの一角に到着したものと錯覚していたのです。
サンタ・マリア号は沈没したものの、1943年3月15日224日間の航海を終えコロンブスはパロス港に帰って来ました。
その後は第二次航海17隻1500人など4回の航海を行い、その後、コンキスタドールによる精神的制服と軍事的制服、植民地化とスペイン大航海時代を迎えることになるのです。
コロンブスはなかなか謎の多い人物のようで、1451年イタリアのジェノバで生まれ、偶然にもイサベル女王と同じ年齢なのです。

by"よっぴ"