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第50回 ハランディージャ・デ・ラ・ベラ

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。これから暫くはエストレ・マドゥーラ地方の素晴らしい歴史的建物のパラドールを紹介していきましょう。
最初に紹介するパラドールは、スペイン最盛期の国王であり、神聖ローマ帝国の皇帝としてヨーロッパを支配していたカルロス5世が、晩年住まいとしたハランディージャ・デ・ラ・ベラからです。

第50回ハランディージャ・デ・ラ・ベラJarandilla de la Vera
愛称Parador"CarlosV"カルロス5世のパラドール

日の沈むことのない帝国と呼ばれた時代のスペイン国王カルロス1世(神聖ローマ帝国カルロス5世)は1555年退位を決意し、静かに晩年を送るためにこのJarandilla de la Veraにやってきます。そして、ユステの僧院(Monasterio de Yuste カルロス1世最後の住まいになる)が完成するまでの約1年3ヶ月ほどこの城に居住することになるのです。ティタル川を見下ろし、背後にはグレドスの山並みが見える、豊かな緑に囲まれた格調高いこの城は、当時はOropesa伯爵(Jarandilla男爵)の城でした。

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外は重厚な中世の城の様相を呈していますが、中は非常に明るい装飾で飾られています。
「カルロス1世が住んでいた頃のイメージの部屋はありますか?」と聞くと「病床で晩年を過ごしたような暗いイメージの部屋はちょっと・・・。」と笑われてしまった。 上階にはカルロス1世のサロンと呼ばれる広々としたテラスのついた広間があり、痛風で苦しんでいた国王の要望で作られた暖炉が今も見られます。
もちろん、建物の中には国王自身、王妃イサベル(当時ヨーロッパ1の美女と言われた)の肖像画もいくつか見られます。この城には国王一族を始め有名人も多数訪れていますが、第二次大戦中、(のちにフランス大統領となる)シャルル・ドゴールもドイツ占領下のパリを逃れて滞在しています。町中は特に何もありませんが豊かな自然に囲まれ近くには川を利用した自然のプールもあり家族連れにも大変人気のあるパラドールです。
またカルロス1世が最後に暮らした、質素で美しいユステの僧院も(12km)スペイン語ですがガイドつき見学が出来ます。カルロス1世が1556年に退位したのちこの僧院に引き籠もるのですが、カルロス1世の居室には食堂と、皇帝がベッドから起きだすことなく祈りを捧げられるように教会と隣接して窓が作られています。後に遺体は、フェリペ2世の希望によって、エル・エスコリアルの修道院の王室霊廟へ移葬されました。
他には近くのGargante la Olla(17km)、Valverde、Villanueva de la Vera(28km)など、この地方独特の味のある家も見られる小さな村を訪ねるのもよいでしょう。

☆ 狂女王フアナとカルロス1世

大航海時代のスペイン国王カルロス1世は、レコンキスタを成し遂げてカトリック両王の名を持つイサベル女王とフェルナンド国王の孫にあたります。
両王には3人の子供が居ましたが、王位継承者のフワン皇太子は19歳で病死、長女でポルトガルに嫁いだイサベル女王は産褥死、生まれた王子も2歳で死に、1504年イサベル女王の死によって、次女フアナ・ラ・ロカ(Juana la Loca)がスペイン・カスティーリャ王国の王位を継承します。
このときフアナは神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の嫡男フェリーペ1世「端麗王」に嫁いでおりましたが、1506年に夫フェリーペの突然死により嘆きのあまり狂い「狂女王フアナ」の伝説を残すのです。
26歳で未亡人となったフアナはフェリーペ1世の遺体を馬車に積み込んだまま放浪の旅を続けたと言われています。
父、フェルナンド2世によって統治不能とされ、トルデシージャスの修道院に幽閉されますがカスティーリャ国王の地位に変わりはなく、1516年には父フェルナンド2世の死によってアラゴン王国の地位まで継承し、1555年75歳で没するまでの46年間幽閉されたままでのスペイン大帝国の女王でした。

1517年、この統治不能のフワナ狂女王の王位継承権を持つカルロス5世が王権の代行のためにスペインにやってくるのです。
カルロス5世というのは神聖ローマ帝国皇帝としての名前で(スペインの金でこの称号を買ったという)スペイン国王としてはカルロス1世が正式な名前です。
しかし、母である「狂女王フアナ」は死ぬまでスペインの女王であり、カルロスがスペイン国王となったのは1555年4月で、翌年の1月には息子のフェリーペに国王の地位を譲り隠遁生活に入ってしまったのでその正式なスペイン国王カルロス1世としての在位はわずか9ヶ月でしかないのです。
そのため正式なカルロス1世よりもカルロス5世と呼ばれることの方が多いのです。

大変な美食家で、特に当地の生ハムが大の好物で、隠遁生活は糖尿と痛風に悩まされる毎日であったと言われています。
対外的には大スペインでありながら、新大陸から持ち帰った金銀はすべて勢力維持のための戦争に使い果たし、国民は飢えに苦しむ毎日でありました。

by“よっぴ”