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2013年12月24日

第59回 アルコス・デ・ラ・フロンテーラ

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今回はアンダルシアの美しい白い町アルコス・デ・ラ・フロンテーラの頂上に立つパラドールを紹介致しましょう。

アルコスはグアダレーテ川Rio Guadalateの流れに囲まれた険しい台地の上にあり頂上のカビルド大広場の片側はバルコニーになっており深い谷を見下ろすことができます。
グアダレーテ川の河原では果樹や穀物が栽培され、遠くに広がる素晴らしい景色を望むことができます。

第59回アルコス・デ・ラ・フロンテーラ
名称Parador"Casa del Corregidor" 代官屋敷のパラドール

シェリー酒で有名なヘレスの街から31km、グアダレテ川を見下ろす小高い丘に広がるアンダルシアの白い町がアルコス・デ・ラ・フロンテーラです。町全体が国の重要文化財地域に指定されていて、特に頂上のカルビド広場を中心として、付近はパラドールの他に城塞跡やサンタマリア教会とともに中世そのままの旧市街を形作っているのです。

このパラドールは元々は、15世紀には王室の代官屋敷だったもので、後に司教の館となり、その後ナポレオン軍の侵攻で破壊されたものを元の建物の基本的部分を壊さないように改装増築して作られたものです。

クルマでない人は、丘のふもとのバスターミナルからは歩くと30分かかるのでタクシーか町営のミニバスを利用することになります。頂上までの7,8分、時折一方通行の混じる細い道をくねくねと曲がりながら登って行きます。勿論ツァー客とて、大型のバスが通れないので、同じに歩くかミニバスを利用しなければなりません。

パラドールは客室の数も少なく全体的にこじんまりしています。パティオもサロンも小さめですが、それがかえって落ち着きを生み出しているのです。レセプションで手続きを終えて中に入ると先ず目に付くのがアーチ型の天井をもつ長い廊下、そして中庭でしょう。色使いもさることながら、飾り置かれた調度品がいかにもパラドールらしさを演出していてとても美しい。

アルコは英語のアーチ、それで廊下、レストランとやたらとアーチが目立ちます。
Oficina de turismo(観光案内所)から毎日11:00,17:00に市内観光ツアーがあります。4名以上で催行されます。ご興味がある方はパラドールに相談してみてください。

ヘレスの街まで行きへレス酒の製造見学が出来る酒蔵に行くのも良いでしょう。
もちろん、市価より安くお土産を買うこともできます。


☆ フラメンコ

フラメンコの語源には諸説ありますが、1517年に狂女王フワナに代わって王権を執行するためにカルロス5世がフランスからやって来たときに連れてきた柄の悪い下品な兵隊を指した言葉だと言われています。これがいつの間にかアンダルシアの下品なジプシーを指すようになり、そのジプシーの踊りを指すようになったというのです。或いはアンダルシアの俗語で「はでな」「だてに気取った」のフラメアンテflameanteに由来するなどの説が有力です。

いずれにせよフラメンコはジプシー抜きには考えられない音楽と言ってよいでしょう。スペイン南部に古くから伝わっていた民族音楽や舞踊に、15世紀東方から移住してきたジプシーの歌や踊りが混ざり合って現在のフラメンコが出来上がったと言われています。しかし一般のスペイン人に注目されたのは19世紀も後半、現在のようにスペイン民族芸術として世界に広まったのは20世紀に入ってからでした。

喉の奥から絞り出すような歌声(カンテcante)に官能的な踊り(バイレbaile)とギター演奏(トーケtoque)の絶妙なハーモニー。これに手拍子(パルマスpalmas)と指鳴らし(ピートスpitos)かけ声(ハレオスjaleos)が雰囲気を盛り上げていくのです。特にフラメンコギターによるラスゲオrasgueoと呼ばれる弦のかき鳴らしは独自の音楽芸術を作り上げています。

我々観光客がフラメンコに触れるのにはタブラオtablaoに行くのがよいでしょう。フラメンコを演ずる為の舞台を設けレストランや酒場をを併設しています。アンダルシアのセビージャやマラガだけでなく現在はマドリッドやバロセロナにも多くの店が開いています。ショーは10時頃から始まり午前0時頃に終わります。が、これは観光客向け、地元のファンはそのアト午前3時、4時まで本格的なフラメンコを楽しむのだそうです。

by“よっぴ”

第58回 ウベダ

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今日は1234年、早くもアラブ人から奪還し、レコンキスタの拠点となったウベダにある中世の味わい深いパラドールを紹介しましょう。

グラナダ王国へのレコンキスタが終了したのち、カルロス1世の宰相フランシスコ・デ・ロス・コボスがこの町を支配し、コボスが町作りに力を注いだ結果、バスケス・デ・モリーナ広場を中心にたくさんの美しい建築物が作られました。 
そして、2003年、西隣の町バエサの建造物とともに、これらのルネサンス様式の建造物群が「ウベダとバエサのルネサンス様式の記念碑的建造物群」として世界遺産に登録されています。
古い建物に囲まれたバスケス・デ・モリーナ広場の中心に位置するパラドールは、かつて司教長オルテガの館だった建物です。

第58回ウベダ Ubeda
名称Parador"Condestable Davalos" ダバロス総帥のパラドール

ハエンの町からクルマで約1時間、ひまわり畑、オリーブ畑に囲まれたアンダルシアの丘の上にある町Ubedaに辿り着きます。
町の中心マヨール広場から歩いて10分、旧市街の中心地バスケス・デ・モリーナ公園の正面に建つのがUbedaのパラドールです。すぐ隣にはエルサルバドール教会、前にはサンタマリア教会と周囲は歴史的モニュメントが立ち並んでいます。

パラドールの名称にあるタバロス総帥というのはレコンキスタの時代に活躍したUbeda出身の人物です。しかし、このパラドールは、このタバロス総帥の屋敷というわけではなく、CARLOS5世のこの辺りの領地を管理していた、そしてすぐ隣のSalvador教会の主司教であったOrtegaのお屋敷だったところです。16世紀に建てられたこのお屋敷は1929-1930年にパラドールとして蘇りました。

2階のガラス張りの回廊からはサルバドール教会の塔の先端が浮かんで見えます。特に夜のライトアップが何とも幻想的で美しいのです。昔の部屋に手を加えてそのまま客室にしているものもあり高い天井などなかなか雰囲気があります。昔の部屋に手を加えてそのまま客室にしているものもあり高い天井などなかなか雰囲気があります。ルネッサンスの遺産が今に残るUbedaらしい建物と言えるでしょう。
酷暑の夏は75%位の予約率ですが、他の季節はかなり混みます。日本からのグループもかなり利用しているようです。
景観の良い部屋は中庭に面したものですが、Salvador教会の正門が見える部屋はライトアップされた教会の夜景がきれいです。

趣のある町中をぶらつくも良し、しゃれたバルで一杯やるのもお勧めです。


☆ アンダルシア

スペインを思い浮かべる言葉といえば「闘牛」「フラメンコ」「白い村」「灼熱の太陽」「地中海のリゾート」ッといろいろあるでしょうがこれらは皆アンダルシアを代表する言葉でもあるのです。実際、スペインを観光する人のホトンドの人たちはアンダルシアを廻るのではないでしょうか?
アンダルシア地方とはウエルバ、セビリア、コルドバ、ハエン、カディス、マラガ、グラナダ、アルメリアの8県、大ざっぱに言ってしまえばスペインの南部一帯、セビリアの大聖堂、アルハンブラ宮殿、メスキータ、ロンダを始めとする正に観光のハイライトが点在する地域でもあるのです。

一年中温暖で(夏は些か暑すぎるが…)ヨーロッパ中、いや世界中から観光客が押し寄せ、さぞかし豊かな地域だと思われますが、このような観光客が押し寄せるようになったのもスペインが国際社会に認められるようになった1950年代以降で、大地主による土地所有制度で貧困にあえいでいたと言われてます。ヨーロッパに南北問題があるようにスペイン内部にも北部カタルーニャやバスクの所得の高い地方と南部アンダルシア地方の貧しい地方があるのです。

現在でも出稼ぎが多く、アンダルシア地方の平均所得はスペイン50県の中でも最低の方にランクされています。しかしながら陽気で人なつこい人柄、仕事はあまりせずに暇があれば朝からVINO(ワイン)を飲んで唄って踊ってお喋りをして時を過ごすのです。
「北部のヤツらは人生の楽しみ方を知らない大バカさ!」と言いながら…。

by“よっぴ”

2013年12月09日

第57回 ビジャフランカ・デル・ビエルソ

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今回はサンティアゴ巡礼路の難所にある美しい村ビジャフランカ・デ・ビエルソのパラドールを紹介しましょう。
セブレイロ峠を目の前にしてどれだけ多くの巡礼者達が、この村で無念の涙を飲んだことでしょうか…。

第57回ビジャフランカ・デル・ビエルソVillafranca del Bierzo
名称Parador de Villafranca del Bierzo

ビジャ・フランカ、この美しい名前の村はフランス人巡礼者の為に作られたことに由来し、現在はマドリッドからア・コルーニャに至る国道沿いに或ります。当時はフランスからピレネーを越えてやってくるサンティアゴ巡礼者達にとって最後の難関路セブレイロ峠(1300m)越えの入り口にあり、暫し休息を得る為の村だったのです。
このセブレイロ峠とはマドリッドーア・コルーニャの高速道路でも最後まで舗装工事が残った程の難所なのです。その為にこの村には無念にもサンティアゴ詣でを諦めざるを得なかった人々のために、同じ名前のサンティアゴ教会があり、ローマ法皇はこの村のサンティアゴ教会を参拝した巡礼者にはサンティアゴの巡礼が完了したと認めたというのです…。そのため、こんな小さな村なのに立派な教会が多くあります。

17,8世紀には巡礼者達で賑わったこの村も現在は人影もまばらな過疎の村となってしまいました。しかし、この歴史に残る寂れた村は、今なお多くの教会が点在しており、スペインのもっとも美しい村の一つとして観光客を集めているのです。

この地のパラドールは歴史のある建物ではありませんが高原のリゾートホテルを感じさせるガリシア風の落ち着いた建物です。
門を入ると花で飾られた美しい庭が建物まで続き、バルやレストランの窓にも花が飾られとても暖かみを感じさせるアットホームなパラドールです。館内も広くはありませんが、落ち着いた上品なインテリアが旅の疲れを癒してくれるでしょう。

パラドールから歩いて5分ほどのところに石造りの大きな古びた宮殿があります。住んでいるひとが居るらしく小さな窓から明かりがもれています。その他にも町の中を散策すると古い教会などの歴史的建造物に混じってびっくりするほど立派な屋敷が多いのに驚かされます。しかし、夏の別荘にでも使っているのでしょうか、あまり人の気配は感じられません。
この町はそんな昔の面影に浸りつつのんびりと歩くのに最適な町かもしれない…。


☆ サンティアゴへの道(Camino de Santiago)

サンティアゴとはイエスキリストの12使徒の一人聖ヤコブのスペイン語名です。エルサレムで殉教したヤコブの遺骸が9世紀になってガリシア地方で(伝説の通りに)発見されたことによりサンティアゴの大聖堂が建てられるのです。

ヨーロッパ中から巡礼者が訪れ、レコンキスタ(キリスト教徒によるイスラム教徒からの国土回復戦争)の波に乗ったこの地はキリスト3大聖地の一つとして最盛期(11世紀)には年間50万人を超えたと言われます。
そして街道沿いには教会、修道院、宿泊所や救護院が整備され巡礼者を護るための騎士団も結成されたのです。
巡礼路と言っても、ポルトガルやイギリスからの海路など道も無数にありましたが何と言ってもフランスからピレネー山脈を超える4本の道(パリ、ヴェズレー、ル・ピュイ、アルル)が有名です。

これらの道はスペインの国内に入り2本となりやがてプエンテ・ラ・レイナで合流するのです。
今でも、平和の象徴のホタテの貝殻の付いた帽子を被り、希望の杖、救いの水筒をもってフランスから全行程を徒歩で旅を(2ヶ月以上かかる)している巡礼者も居るのです。
もちろん最近はバスや鉄道を利用したりする人が圧倒的に多いのですが、それでも巡礼路にある中世の町を訪ね、巡礼者の雰囲気に浸るために1,2週間歩く人はたくさんいます。
また、それらの人の為に宿泊施設として解放されている民宿や修道院等もたくさんあります。

by“よっぴ”

    ログロニョの街並み                    レイ・カトリコの街並み
    プエンテ・デ・レイナの街並み              プエンテ・デ・レイナの橋
  サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダの町            オリテの街並み
       ブルゴス大聖堂                      レオン大聖堂
     レオン・パラドール                       アストルガ大聖堂
     現代の巡礼者達

第56回 トルデシージャス

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今回は大航海時代にスペインとポルトガルで世界を二分した「トルデシージャス条約」で有名な町トルデシージャスのパラドールです。

弟56回トルデシージャスTordesillas
名称「Parador de Tordesillas」

トルデシージャスのパラドールはサラマンカ、バジャドリド、サモラなど大都市に挟まれた重要な交通の要所ということで、政府経営によるアルベルゲとして開業されたものがパラドールに姿を変えたものです。

トルデシージャスは歴史的には1494年6月7日、ローマ法王アレハンドロ6世の仲介でスペインのカトリック両王とポルトガルのジョアン2世との間で勝手に大西洋を二分する条約が交わされた場所として名高い場所です。
また、カトリック両王の長女は夫フェリペ1世端麗王が1504年に亡くなったのち絶望のあまり精神のバランスを崩した女王フアナはこの地にあるサンタ・クララ修道院で国王でありながら、生涯幽閉生活(46年間)を送りました。

このフアナが幽閉されたサンタ・クララ修道院は、かつて愛人マリア・デ・バディジャのためにペドロ残虐王がマリアの住居として故郷セビージャのアルカサルの建築家を連れてきて遠く離れたカスティージャの古い王宮をムデハル様式の建華麗な建築物に改装したものです。
現在は狂女王フアナ が使ったオルガン、フェリペ2世愛用のクラヴィコード(ピアノの前身)等が展示されています。

このトルデシージャスから南へ1.5kmにパラドールはあります。
ドウエロ川を渡った閑静な唐松林の中にひっそりと佇む落ち着きのある上品な建物の客室は静寂と安らぎを与えてくれるでしょう。

アルベルゲがパラドールとなった所は他にも十数カ所ありますが、通常はこじんまりとしたパラドールが多いのですが、此処トルデシージャスは広大な敷地にレストラン、会議室、客室、サロン、大きなプール、そして別棟には結婚式などに利用されるコンベンションホールまである贅沢なパラドールです。

リゾートとしての雰囲気をもつこのパラドールは一般の観光客よりも長期滞在のバカンスを楽しむ家族連れが多く、商用の滞在客、そして結婚式や会議にと幅広く利用されているのです。
部屋もサロン、レストランも取り立てて豪華というわけではありませんが広々として明るく清潔でとても心地よい雰囲気があります。

宿泊客の75%はスペイン人で、冬の閑散期(11月−1月)には会社の会議等に利用されています。94年にはスペイン国王も宿泊され、政治家なども立地のよさから宿泊する事が有るということです。



☆ トルデシージャス条約

1493年3月第一次航海からコロンブスが帰るとスペインのカトリック両王はその発見した諸島の領有権をローマ教皇に願い出ますが、すでにポルトガルにも1479年のアルカソバス協約によって以後の発見地の領有権を与えていた教皇アレハンドラ6世は、アソーレス諸島とベルデ岬諸島西方100レグア(約560km)の地点を通る分割線を引き、その西方地域をスペイン領土、東方地域をポルトガル領としました。

その後、ポルトガル王ジョアン2世はカトリック両王と折衝し、スペインの領有権をベルデ岬諸島西方370レグア(約2060km)の地点に改めさせてコロンブスが新大陸発見の2年後、1494年6月7日にトルデシージャスにおいて条約が締結されたのです。
いずれにせよ、大航海時代にはこのように勝手に未開の地をスペインとポルトガルで地球を分割してしまったのです。
しかしこの分割の線引きが西方に変えられたことによってブラジルはポルトガルに支配され、現在も南米唯一のポルトガル語圏となっているのです。

そして、前述したように、このトルデシージャスの町はその後、カトリック両王の次女、「狂女王フワナ」がのちに幽閉される土地でもありました。
1504年、フアナは母イサベル1世の後を継いでカスティーリャ女王となりましたが、1506年に夫フェリペ1世に先立たれてから彼女は死ぬまでサンタ・クララ修道院のに1509年から亡くなる1555年まで、フアナは修道院内に閉じこめられていました。
しかしフアナの部屋がどこかはわかっていないとのことです。

by“よっぴ”

2013年12月04日

第55回 リバデオ

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今回紹介するのはカンタブリ海エオの入り江に建つ美しいリゾート、リバデオのパラドールです。

第55回リバデオRibadeo
名称Parador de Ribadeo

スペイン北部最大の町、ア・コルーニャからオビエド、サンタンデールに向かう国道がカンタブリア海に出会うところ、アストゥリアス地方との境界の町がリバデオです。リバデオの町の入り口にパラドールはあり、近くのカンタブリ海に注ぐエオ川の河口ではサーモンやマス釣りが盛んです。

ガリシア様式で建てられたこの建物は海沿いの崖を利用して造られており、外の道路側からは2階建てにしか見えませんが、海側からは堂々とした5階建てです。

もちろん、各部屋からは海が真正面に見えます。
ガリシア特有の白い枠で囲まれた大きな窓は部屋のバルコニーは勿論、レストランやサロンもサンルームのように、冬でも明るく暖かな日差しをもたらします。

部屋はもちろん、レストランやカフェテリアからも、眼下に広がるヨットハーバーとその先の入り江の対岸にはアストゥリアスの村々が織りなすのんびりとしたガリシア独特の風景が楽しめます。

フランコ将軍も泊まったというスウィートルームは如何でしょうか?ベッドルームはごく普通ですが、その何倍も広くて豪華なサロンが付いています。ソファに座り、机の向かって手紙でも書けば、もう貴族の気分になれるでしょう。 追加料金を払って・・・

☆ ルーゴの城壁

スペインで城壁の町と言えば先ず思い出されるのはアビラでしょう。
11世紀に作られ美しく完全な形で残り世界遺産にも登録されているのだから当然です。
しかしルーゴの町の城壁も負けてはいません。アビラには遅れましたが2000年に世界遺産に登録されました。(アビラは1985年)

ルーゴはガリシア地方ルーゴ県の県都であり、ミーニョ川左岸標高485m、人口10万人弱の小都市ですがレオンのアストルガ、ポルトガルのプラガと共に広大なローマの属州であるガラエシアを形成する三都市の一つでローマ時代の名残が強く残る町なのです。
城壁は3世紀に建設が始まり中世期に完成され、高さ10m、幅4〜5m、全長2.1kmの城壁は50の塔を持ち全周が今なお完全に残っており、徒歩で1周できます。
この城壁はアビラの城壁のような大きな岩石を積み重ねたものでなく、結晶片岩の板状の石を積み重ねたもので旧市街を取り囲み10カ所の門が開いています。
これらの門からは塁壁の上の巡視路に登ることが出来て旧市街が見渡せ、周りの田園風景が広がります。

旧市街の南にある1129年に着工されたロマネスク様式のカテドラルはその後ゴシック様式、バロック様式でと増築が行われてきました。
ところで、このルーゴの城壁を外側から眺めると非常に多くの部分が白っぽく見えます。
近づいてよく見るとビニール袋に本が入って城壁にぶら下げてあるのです。その様子はまるで天神様の絵馬を飾ってあるようです。何故このようなことをするのか聞いてみると、これらの本はすべて寄付でその売り上げは慈善団体に寄付されるそうです。どの位の売り上げになるかは分かりませんが、町中の人たちの優しい気持ちが現れているようでとても気持ちのイイ町でした。

by“よっぴ”

2013年12月02日

第54回 フェロール

はろはろ!こんにちは〜!"よっぴ"の「パラドール紀行」です。
今回はスペイン北西部の端、フランコ将軍の出身地、フェロールの町にあるちょっと変わった内装のパラドールを紹介いたしましょう。



第54回フェロールFerrol

名称Parador de Ferrol

フェロールはア・コルーニャから北へ約70kmクルマで1時間足らず、ガリシア北部リアス式海岸の理想的な軍港と造船所のある町として知られています。
このフェロールは海岸線が深く細長く切り込んでおり、湾の幅は6kmしかなく軍港として非常に優れた地形となっているため、現在でも海軍の重要基地となっています。
入り江の入口の両岸にはかつて二つの城塞が築かれ、海からの攻撃を守ってきました。

エレラとサン・フランシスコ両庭園のそばにあるパラドールはガリシア地方様式を取り入れた建物で、白い枠組みの広い出窓がとてもまぶしい印象を与えています。かつての独裁者フランコ将軍の生まれ故郷でもあり、まちの中心にはかつてフランコの騎馬姿の銅像が建っていましたが、近年批判が多く撤去されました。
スペインには他の町にも数多くのフランコ像がありましたが現在は本土からすべて撤去されたとのことです。

もともと海軍施設の建物だったと言うだけあって、パラドールの玄関脇には大砲や大きな錨が飾られています。内部もパラドールの館内と言うよりも船内と言ったほうが相応しいような、船具を用いた内装でサロンや階段は船舶や航海にまつわる品々や世界地図などで飾られています。

自然の板張りで出来た部屋続きのバルコニーは出窓ふうに白い枠組みのガラスで囲まれて、冬でも温室のように暖かく、港の景色を眺めることができます。 潮の香りが漂うレストランも同様にガラス張りで明るくテラス風の造り、カジュアルでお洒落な感じに仕上げてあります。

☆ フランコ将軍

1892年フェロールに生まれたフランコ将軍は幼名パコPacoと呼ばれ、気の弱い少年だったという。
父親のニコラス・フランコは海軍の将校で、フランコも15歳でトレドの陸軍士官学校に入学し、卒業後はモロッコで中尉として任官されます。
このとき植民地モロッコでの独立戦争に軍人としての才能を発揮して出世コースにのり弱冠32歳にして少将となり、ナポレオン以来の若い将軍と言われたのです。

折しも1931年、アルフォンソ13世の亡命によって第二共和国が誕生して彼も共和国政府に忠誠を誓うのですが、1936年クーデターを起こし内戦に勝利したフランコはその後1975年、82歳で生涯を終えるまで、何と40年にも及ぶ独裁政権を敷くのです。

第二次大戦中も一応中立の立場を取るのですが、内戦(市民戦争)中に有名なゲルニカ爆撃などでヒトラーに借りのあるフランコは41年反共産主義の名目で志願兵による義勇軍「青い旅団」5万人をドイツに送り込むのです。
その為中立の立場を取りながらも戦後1946年に国連はヨーロッパ最後のファシスト国家として「スペイン排斥決議案」を採択し、スペインは各国から締め出しを食ってしまいます。
しかし、米ソの冷戦をきっかけとして1950年「排斥解除」53年アメリカに基地提供による軍事援助、経済援助を受け、55年念願の国連加盟を果たすことになります。

フランコは工業育成と観光政策による経済発展を目指し、やがてスペイン経済は順調に発展をとげ、「スペインの奇蹟」と言われるほどでしたが、反体制に対する徹底的な弾圧と残虐な極刑で内外の批判を買うことになります。
当然、フランコの40年にも及ぶ長期の独裁政権に対して内外から批判は数多いのですが、フランコ自身は他の独裁者のような、私利私欲に走ることなく清廉潔白な軍人であったといいます。
それで、今でもフランコの時代を懐かしむ国民も大勢いるということです。

by“よっぴ”